Wikipediaより。
本能寺の変(ほんのうじのへん)は、
1582年6月21日(天正10年6月2日)、
織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に宿泊していた主君信長と後継者の信忠を襲い、自殺させたクーデターのことである。
暗殺事件との解釈もなされる。
光秀は、6月3日・4日を諸将の誘降(=降参・降伏を誘うこと。相手が降参するようにしむけること)に費やした後、6月5日安土城に入った。
9日、上洛(=江戸時代以前の日本において、京都に入ること)し朝廷工作を開始するが、秀吉の大返しの報(♯1)を受けて山崎に出陣。
13日の山崎の戦いに敗れ、 同日深夜、小栗栖(京都市伏見区)で土民に討たれた。安土と京都で政務を執ったのが4、5日から12日であったため、三日天下と呼ばれた。
♯1 中国大返し または 備中大返しは、天正10年6月(西暦1582 年6月-7月)、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での横死(横難横死(おうなんおうし)とは、予期しない災難や非業の死をとげること。)を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。